何かを相手に伝える時、”教える”のか”与える”のか。
今日はそんな事を思い巡らした。

“教える”はとても一方的で、”与える”は相互的な”与え合い”、愛の循環が生まれる。

“教え”ている時、それは自分の真実を”正解”として、その”正解”を相手に押し付けている。その時、”知っている自分”と”知らない相手”というものを生み出し、上下優劣の意識が無意識にある。

“相手は知らない”という考えから派生するのは、”解決してあげなくては”と心配したり、気を揉んだり。相手の状況を悪い状態だと判断したり。解決まで導こうと、全てを言葉で語る。

一方”与え”ている時、それは、各々の真実を信じ、その相手が自分で自分の真実に触れるヒントを与えている。そこには、必ずその相手が”知っている”という深い信頼があり、相手と自分に優劣無く、同じ本質であるものとしてのワンネスがある。

“相手は知っている”という信頼からは、”私が解決してあげなくては”という考えは生まれず、どのような状況にも光を見て、言葉では語れないものを伝える。例え今すぐでなくとも、花開く事を知っている。

同じ根源から生まれたというところに浴していたら、私も光、相手も光。例え今そこにベールがかかっていても、同じ光でしかない。”与える”は、自分自身への深い信頼と愛から来る、相手への愛。わたしはあなた、あなたはわたし。

“正解”は3人いれば3つある。 ひとつの源があって、そこへの道しるべも道程もそれぞれが美しいから生きている。パートナーにも家族にも、誰かに何かを伝える時”与える”を大切にしたい。